無断リンク論は麻疹のようなものかもしれない

昭和のレトロ感あふれる背景に、古びた新聞が映し出される。
古いフィルムだ。セピア色の擦り切れて傷んだ映像。
新聞の見出しにはこう書かれていた。

無断リンク禁止宣言サイトへの無断リンク行為とは

前世紀からネット使っている人間としては*1、そんな時代の出来事だったかと思うぐらい古びた話題なのだけど、今なお盛んに話題にされているあたり、歴史は繰り返すのだな、と思う。

そりゃ、論じている人が入れ替わり立ち替わりなんだから、延々と論じられ続ける話題とも言えるか。自分も昔はそれを論じたし、論じて論じて相応の答えを得た、という自分が育ってきた過程として、無断リンク問題は懐かしいものを感じさせる。ネットで声高に演説しようという人間の多くが通る通過儀礼なのかもしれない。

そう、これは麻疹のようなものなんだ

対称性について考えよう

まず、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアンの名台詞について考える必要がある。自分は相手に要求をするけども、相手の要求は聞かないという、つまり、我儘ってやつだ。

この一方向の要求という不対称性が否定されるところまで話を飛ばす。こんなの幼稚園ぐらいのときから延々と諭すような出来事だ。今更言われなくてもみんな理屈では分かっているよね*2

で、我儘は駄目だよということで、論理的には完全に許すルールか、完全に禁止するルールになる。「俺はやるけど、お前はやるな」はナシ。「誰もがやってもよい」か「誰もがやってはいけない」の2択だ。

つまり、「リンクは無断でしてよい」か「リンクは無断でしてはいけない」のいずれかになる。「俺は無断でリンクするけど、お前は俺にリンクするな」がダメなのはわかるよね。ルールとするには良い/悪いのどちらかになる。では具体的にどっちなのか?その前にちょっと寄り道する必要がある。

リンクと同じように「俺はお前をネタにするけど、お前は俺をネタにするな」もダメなのはわかるだろう。これは良い/悪いのどちらになるだろうか?

当然、僕らは自由に何かについて語り合える。これは「誰もが何をネタにしてもよい」というルールだということ。「あいつがXXって言ってたんだけどさー」っていうことをいちいち断ることもなく言える自由がある。

つまり、僕らは何をネタに話をしてもよいが、自分がネタにされることも拒否できないんだよね。いやだって我儘言いたいのも分からなくもないけど、幼稚園児を諭すような(略
*3

言及とソースのありか

さて、自分らは普段からいろんなものを話題のタネにしている。人を俎上に載せると言うことは、人から俎上に載せられるということだ。これを否定することはできない。「俺はお前をネタにするけど、お前は俺をネタにするな」はダメってさっき確認したよね。それは我儘にすぎない、お前はジャイアンか!

ある人が作った作品を批評することを禁じることはできない。ピカソを下手な絵!と言ってしまっても別に咎められやしない。ただ、公開して人に批評を受けるってのは、恥ずかしいやら緊張するやら。何にせよ悪くは言われたくないよねってのは心理としてよく分かる。小学校ぐらいで習字とか図工の絵とか一様に並べられるじゃん?あれって恥ずかしいよね。やっぱり。無理やりやれって言われてモノを作って、公表させられて出来栄えを批評されるんだから。*4

でも、あんな強制は受けてないんだから。僕たちは自由意思でblogを書くわけだ。そしてわざわざ批評される場に出している*5。なんか言われるのがいやだったら発表しないよね。公表されないことを前提とした詩集とかあっても全然問題じゃない。でも、発表しておいて感想がネガティブだと怒るってのはどれだけ幼稚なのよ?

で、何かについて話をする時にその対象は何かを語るわけだ。つまるところ「ソース」は何って話。そして、インターネットで公表されているソースはURLで簡単に辿り着けるようになっているから、「ここを見てみろよ、XXがYYってZZじゃね?」ってやるわけだ。

さて、自由に議論できる、議論の対象のURLが出てくるというところまできた。

リンクになっていなければいいの?本当?

このURLはブラウザのURL欄にコピペすれば該当のソースを表示してくれるものだ。
そしてHTMLのaタグを使うと、これをワンクリックでやれるようになるわけだ。HTMLのハイパーリンクとはそういう機能だと言うことをまず抑えておこう。
無断リンク禁止ということは、議論の俎上にあがったURLを便利にワンクリックで移動できるようにはしないで表示せよということになる*6

http:// って表記を ttp:// って書いてあるのを手作業で表示させるのって面倒だよねって思ったことはない?その場で言及されていることは何ら変わらない。リンクされていようがいまいが、そこで話題にされている事実は変わらない。手間はかかるもののソースに辿り着けるわけだし*7

無断リンクを禁止したいという人はよく考えてみよう。自分のblogのURLが ttp:// で書かれてリンクになっていなければ「よし、いいだろう」って言うの?

違うでしょう?

よく考え直してみると言い。HTMLのaタグを使っているか使っていないかなんてどうでもいいんじゃないの?
つまり、「俺のblogを話題にするな!」ってのが本当のところなんじゃないか?

結論

そんなわけで、結局のところ無断リンク禁止ってのは「俺はお前を批判するけど、お前は俺を批判するな!」ってのに繋がるんだな。
その我儘をどうにか通すための方策をいろいろ考えるのも論者の多くが通る道なのかもしれない。

確かに自由な世界というのは安全なところから一方的に相手をつつくようなことが許されない。檻の外から猛獣を眺められる動物園とは違う。サバンナの原野でライオンと向かい合う、それが自由ってもんだ。

雛が野生の原野に巣立つようなもので、いきなり卵から孵ったらすぐに飛べってのは無理で、僕らは巣立ちまでの猶予を与えられるべきだ。ネットで発言すると言うのは巣立つことで、安全な巣から高みの見物を決めるならずっとROMってろ!というわけだ。

モデレートとかのシステムは論理的に対称性を持つには自由とするしかない、というのを踏まえた上で、自由だが無秩序というわけにもいくまいという現実に立ち向かう方法論なのだよね。

ここで誤解してほしくないのは、モデレートってのは秩序を維持するもので、我儘を増長させるためのシステムではないということ。「俺、ジャイアンでいたいんだよ」「モデレートってやつでジャイアンであり続けられるんじゃね?」とか考えないように。

雛鳥が巣立つのを助けはしても、巣の中に引き籠ることを助けてはくれない。*8

*1:自分は当時近所の大学の図書館に潜り込んでマックでネットに繋いでいた。プログラムはもっと前からやっていたけど、パソコン通信とかはやっていなかった。Windows95が生んだネットブームで初めてパソコンを触った人も多いんじゃないだろうか。我が家も家でネットをやれるようになったのはWin95の頃だ

*2:だからってそれを自然と実践するのは難しいんだけど。七十而従心所欲というじゃないか

*3:管理の問題ですね、わかります - プログラマーの脳みそのブクマで「”公表された言論に対しては批判の対象となる、という単純なルールがある”ちょいちょい見かける意見だけど、その根拠を聞いたことはない。仮にそうだとしても、ネットが一般化した今においてはカビが生えたルール。」というコメントがあった。次の行に根拠書いてあるからそこまで読んで欲しかった。それとも、ジャイアンはダメってのがわかんなかったか。そんなわけで詳しく書いてみたんだけど、ジャンアンはダメってのがわかんないんだったら意味ないよな…

*4:アレはトラウマになる可能性もあるけど、批評にさらされることを体感させているのかもしれない。

*5:もっとも、そういうものだと理解せずにblogを使って「こんなはずじゃなかった」と言っているのがネガコメ禁止論の支持者なのかなぁと想像するのだが。

*6:そもそもURLを表示するなというなら、議論の自由はダメということろまで戻る。ソースを述べることは「誰もがやってはいけない」というルールになる。それって無茶すぎだろ。

*7:ttp://をワンクリックで飛べるようにするツールとかもあるらしいじゃん

*8:ネットなんてサバンナでライオンと格闘できるようなマッチョなエンジニアが作ってるんだぜ。みんなマッチョになろうよってのが基本思想で、巣に引き籠る支援なんてしないよ。