金に対する価値観

【論説】 「小学生でもわかる真実、『人間の価値はカネで決まる』。社会は、年収100万のフリーターなどゴミ扱い」…赤木智弘
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1076188.html


この手の金の価値を考える話題は後を絶えない。
それは現に貨幣経済の社会においては金がなければ生きることさえままならないからであり、
金というものへの関心がない方がおかしいとも言えよう。


しかし、金という「わかりやすい物差し」で全てを測ろうとすることは
ひどく稚拙なことであると言わざるを得ない。
数字という道具が扱えないというなら義務教育をやり直してもらうところであるが
数字という道具しか扱えないというのも問題である。


世の中には数字にしにくいものが多数あるし、そういったものこそ重要だったりするわけだが
それこそ数字という分かりやすい物差しがないし、間接的な効果しかないものだから
曖昧模糊として実態が捉えにくい。
欧米ならば見えないものはないものだぐらいの扱いかもしれないが、
日本人はそうした見えないものを捉え、それを大事にする民族のはずである。


例えば礼節しかり、情けしかり。「情けは人のためならず」という。
意味は情けというのは人のためにかけるものではなく、回り回って自分に返ってくるものだからこそ
自分のためにかけるものだということだ。


今でいう「空気を読む」つまり、「察する」という能力が日本では非常に重視されるが
これこそ数字にできない、「見えないもの」の代表である。


話を戻す。
金は確かに大事だ。金の存在を全否定することはできない。
しかし、逆に金がすべてだという結論もまた誤りだ。
つまり、「金は大事ではあるが全てではない」


金というのはどのように使うかが問題なのだ。
まず、目的ありき。
目的のための手段としての金という捉え方をしている限り、
金という道具のために本来の目的を忘れることはない。


目的の達成のために金が必要であれば、金を稼げばよい。
他の手段として金に変わる方法論(自作してみるなど)があるならそちらでもよい。
金の使い方を知るというのは、目的を持つところから始まる。
目的がなければどのように金を使うかなんてことを考える余地がない。


目的のために金の使い方を考え、また人付き合いもし、時間の使い方も考える。
そういったレベルで金を捉えるべきだ。
当然、人づきあいだけでは目的は達せられないだろうし、時間だけあっても達せられないだろう。
同じように金だけあっても目的は達せられないのである。


目的は金の上にくるものなのだが、金を頂点として考えるからおかしくなる。