エロとグロと芸術と

X51.ORG : "死体なき国の死体写真家" -- 釣崎清隆インタビュー
結構グロい話なので耐性のない方は原文は読まない方が良いかもしれない。

釣崎 例えば『食人族』はイタリアで裁判をやって最高裁で“猥褻物”っていうお墨付きになった(注10)わけだけども、まあ法律的には猥褻物ということにするしかないだろうね。

── でもポルノならばともかく、死体が猥褻というのが、いまひとつピンと来ないですね。

釣崎 いや、猥褻という意味をどうとるか、という話になるけどね。広くはまあ公序良俗を乱すようなものっていうことになるのかな。まあ昔から言われるけどね。オマンコと死体は一緒だってね。

という話があって、エロというのがなぜ特別視されるかといえば、それはやはり
人間の本能ということだと私は思う。
生殖行為というのは、生物の第一目標に据えられていると言っても過言じゃない。
生殖のためなら死んでもいい、という生物もいるわけだから、生存よりも生殖なんだろう。


思うに、繁殖しようという意思を持たない生物は、この何億年という時間の中で
とうの昔に淘汰されてしまっているのだと思う。
現生の生物は全て繁殖しようというアルゴリズムを持っている。


人間もまた然りで、繁殖して子孫を残すということは本能であるし、
それがゆえに、ポルノという、つまり繁殖本能を刺激する事項は特別な刺激であり
正常ではいられなくなるからこそ規制されるものだ。
そう言う意味では、性と麻薬やアルコールは似たようなものだ。


繁殖が第一目標と言った。第二はやはり生存だろう。
ならばこそ、危険というものから遠ざかりたいというのも本能である。
死体が猥褻というのは、それもやはり本能にほど近いところだからだと思うのだ。
人の死ぬ様というのは、自分が当事者だったらという想定を強く刺激する。
目の前で人が死んだとすれば、それは自分の命も危ないと本能的に考える。


死体というものに対して、死ぬということに対して、非常に強い反応を示すのは
人間が本能として反応しているからであろう。
だからこそ、「オマンコと死体は一緒だ」という話になる。公序良俗を乱すようなものってわけだ。


繁殖ということから発展した話だが、子供が可愛いと思うのは、これもまた人間の本能であると思う。
本能として生殖を行い、相当の労力を持って生んだ子供を、可愛いと思うように人間が
作られていないのだとすれば、子供が育つということは困難を極めることだろう。
子は社会の宝であるというのは、古代からのことである。
自分の子のみならず、子供という対象に慈愛持つのは人間の本能であると思うのだ。
母性とか父性の本能などと呼ばれるけども、こうしたものは、繁殖とセットの代物だと思う。


死ぬということに対しては強く忌避する本能がある。
本能として忌避するものとしては、他に排泄物が挙げられる。
「うんこがくさいのは、うんこだから」という話もある。
本能が、排泄物を忌避するようにしているのだ、という説。
これはわりと合理的な説だと私は思う。
汚物もまた公序良俗を乱すものだから、汚物をばら撒いたりすれば法で取り締まられる。


グロというのは、排泄物ではないかもしれないが、やはり生存のためにはそのような物には
近付くなという本能の現れであると思うのだ。


本能に対してプラスに働きかけるものは一般に芸術と呼ばれるもの。
主に感動という形で本能に働きかけるが、悲しみという形のものもあれば、怒りというものもあろう。
結局、人間というものに対して、なんらかの感情を隆起させるものはどれもこれも似たようなものだ。


もっとも、そうなるとエロとかグロとか残虐とか悲壮とか感動とかなんでもかんでも
いっしょくたになってしまう。
でも、そもそも供給する側はエロならエロという意図で供給しているのだろうし
グロならグロ、残虐なら残虐、悲壮なら悲壮、感動なら感動と、
隆起させたい感情を狙ったうえでそのようなモノを作って供給しているはずだ。
トンデモ本のように供給側の意図と別の形で捉えられるものもあるが置いておく)
こうした人間の感情の隆起というものは、結局のところ人間のアルゴリズムの読解にほど近いと思う。


そうした、人間の感情の隆起を狙う側、つまり、なんらかの表現をする側は
なんとか躍起になって自分の作品を持って感情を持ってもらおうとすることだろう。
そうした場合に、ハイブリッドなものを出してくる輩が出ることは想像に難くない。
エロ+グロや、エロ+残虐行為、エロ+子供などなど。


かといって、じゃ、殺人シーンが欲しいからって実際に人を殺すってわけにはいくまい。
青春時代の性を描く映画を撮ろうとしても、子供の俳優にそれをさせるわけにもいくまい。
だが、これらの表現を作る過程において違法性がない、つまり、特撮であるとか、
CGであるとかであったとしよう。


これらが人間の感情を隆起させるものとして作られ、そして、敢えてそういう感情を
感じたいという人に供給されるのだとすれば、それを止めることができるのだろうか?
自分の好きなものは供給を許し、嫌いなものは世の中からなくなれ、というのは、非対称が過ぎる。
自分の好きな感情を隆起するものがあれと願う以上、他人が何を好むかに口出しすることは
自己中心的な事柄となってしまうことだろう。


いくら「えっちなのはいけないと思います!」と言ったところで、世の中にはポルノが溢れている。
悲壮な物語なんていらないと思う人がいようとも、そうした物語も溢れているし、
ホラーなんてなくなればいいのにと思う人がいようとも、ホラー作品も後を絶たない。
ま、数の大小はあるとは思うけどもね。


そんなわけで、自分はエロもグロも芸術もいっしょくただと思うし、
自分が目を覆いたくなることを嗜好する人間がいようとも、自分の目の前でやってくれるな、
と思うだけで、存在を否定はできないわけなのだ。


それを否定できるということは、対称性からして、人がそう言ってきた要求をうけねばならない。
それができないなら、「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」ということだ。
そんなことでは社会が成り立たないことは子供のうちに思い知らされることだ。


ただ、作る側として回ったとき、注目を浴びたいのであればエロにでも走りたくなる。
結局のところ、エロというのは関心を集めるという事では非常に強い本能なのだと思う。
かといって、そうした安易な方向性ではないもので評価されるものを作りたいとも思うのだ。
あまり大衆に理解されないニッチな感情隆起を狙って活動する人というのは、
また随分といばらの道を歩むものだな、と感心する。


私は臆病ものなので無難に技術者としての活動をすることにしよう。