木を見て森を見た気になるのは人間の本能

集団でもない属性の一部が悪ければ同じ属性は全て規制されるべきか - novtan別館あたりの議論とか、自分の先日の議論とかが対象の話題なのだけれども。

木を見て森を見た気になる

まず、共通する問題点として、個と全体の混同というのがある。議論をするならば、というよりも論理的に考えるためには単体の存在と、その集団は違うものだということをちゃんと区別しないといけない。

これは、例をあげると「確かにそれはおかしいよね」と分かるものなのだが、時にこのおかしさを感じない時があるので注意する必要がある。

  • Java屋のA氏にPHPを馬鹿にされた → Java屋は全てPHPを馬鹿にしている
  • B氏は悪徳弁護士だった → 弁護士はみな悪徳だ
  • C氏はビジュアル的にも人間的にも気持ち悪いヲタクだった → ヲタクはみな気持ち悪い
  • D氏は匿名をいいことに人々を罵倒して回った → 匿名で発言する人は全部ろくなものじゃない

個人を見て、その集団を非難するようなケースを並べてみた。題に挙げたように「木を見て森を見た気になる」とこういうおかしな言動をしてしまう。


これは、「坊主憎ければ袈裟まで憎い」という奴に通じるものがある。特定の人が嫌いだった時に、関連するものをすべて嫌うという論理。
あるいは、1、2、沢山というモノの数え方である。一人に文句を言われた、もう一人に文句を言われた、沢山の人に文句を言われた、という感じ方。そして沢山=無限大と感じる感じ方。

なぜ人は木を見て森を見た気になるのか?

こうしたことは、人間の成長の過程で克服されることが期待されるわけだが、こうした幼稚な考え方のまま成人した人も中には居よう。
このような考え方、感じ方は特殊な一部の人間のものというわけではない。この「木を見て森を見た気になる」能力というのは人間の備えもった能力だと私は解釈している。
というのも、最初から慎重に慎重を重ねて物事の法則性を捉えるような作りだと、学習が全然進まないからである。

AIの話になる。物事の組み合わせというのは指数関数的に増える。たとえばサイコロを1個降るなら6通りだが、2個だと6の2条だし、10個だと6の10条となり、これは6千万ぐらいになる。こうした、パラメータの増大に対してパターンが爆発的に増えることを「次元の悪魔」と呼んで恐れているわけだ。

人間は外界を見てそこに法則を見出す。こうしたらこうなる、というのを体験して学んでいくのだけれども、そこでは厳密には間違いだろうと、適当な当たりをつけて、よく近似できる法則で物事を捉えてしまうのだ。
おろおろして学習ができないよりも、多少の間違いを許容しても素早く学習することが生存に有利だったのだろう。ともかく人類は早合点するという代償を払うことで素早く学習する能力を手にしたのだ。

より成長するために

一部を見て全体を捉えたつもりになるというのは人間の成長段階では初歩の部分である。まずはそれでもいいだろう。しかし、理解を成熟させるとなると、適当な当たりで作った法則のあらが目立つようになる。
こうして法則に対して矛盾を突きつけられたとき、気のせいとか、たまたまXXが悪かっただけ、とか理由をつけて法則を守るのか、それとも、矛盾を解消するように法則を修正するのかを迫られる。
ここで、法則を守るという方向に迷い込むと人間として社会適合できなくなる。悪いものは周囲であって自分ではないという考え方は、是正の機会を奪ってしまう。


自分が悪いということは、自分さえ是正すれば問題を解決できるということ。
自分は悪くないということは、自分がどうあがこうが問題を解決できないということ。


それが自分の過ちで、その過ちを正せるうちは成長に頭打ちはない。