カツアゲはありふれた事象だけども肯定することではない

カツアゲする相手がいなくなったら餓死するよ。
そして、カツアゲする相手がみんないなくなった実例がジンバブエ

たかる相手がいなくなってから気付くジンバブエメソッド - プログラマーの脳みそ

と書いた。

ブクマで「 かつあげ自体は、人類は世界中で何千年もやってきたことなので、ごく自然。」という意見があった。ふむ。

実際に、カツアゲ、というか軍という暴力の名のもとに富を分捕ると言うことは、ずっと行われてきたことだ。そう言う意味では自然とも言える。自然界の弱肉強食の掟の延長とも言える。

だが、二次大戦以降、そろそろ分捕るのはやめないか、という時代になってきた。

例えば、後輩いじめなんてのは学校社会の世の常に思うのだけど、どこかの代で「もうやめにしよう」と言わねばならない。同じように、ジャイアニズムの連鎖をここらで分断しよう、という機運があるのではないだろうか。

カツアゲを封じて、もっと生産的なことで勝負しようぜ、という機運。

ネットにおけるモヒカン族とかを見ると、力のあり様が多様化してきていることがわかる。だからってモヒカンの無法者になっちゃいかんのだけどさ。

ブログのシステムを考えるときはライフゲームを想像する - プログラマーの脳みそで取り上げた、ライフゲームのような仮想世界で安定した世界を作るには、一方的な略奪をルール違反としなければならない。略奪は報復を受けるし、そうした報復合戦が不毛であることは何千年という歴史から僕らは学べる。

だから、行動規範には対称性が求められ、お互いが得をするようなWin-Winである必要がある。そうしないと世界が安定しない。