収入の上限を定めた実例
http://anond.hatelabo.jp/20080616012551
ここでひとつ、収入の上限が決まっている世界を紹介しよう。
10倍成果を出そうとも、働いた時間で賃金が支払われる世界。私の知るそれはIT業界と呼ばれている。
賃金は頭数に対していくらで支払われる。能力が突出している人間は100人凡夫を集めてもできないことをさらりとやってのける。だが、そんな彼にも支払われる金額は対して変わらない。
この世界は、能力ある人間に能力のない人間がぶらさがるような格好になっている。20人程度でプロジェクトをやったとして一人プロフェッショナルがいれば概ね安泰。100人のプロジェクトですら1人プロフェッショナルがいればなんとかなる。
だが、1人もプロフェッショナルのいないプロジェクトではデスマーチが延々と執り行われる。
収入に上限が!その時君は?
さて、報酬が制限されたとき、人間が何をするかわかるだろうか?
手を抜くのである。価格に適正な程度までしか仕事をしなくなるのである。IT業界では勤務時間の半分以上を遊んでいる人間もいる。1人月分のノルマは達成した上で、定価でより働く義理などない。生まれた空き時間で勉強ぐらいさせてもらわないと割に合わない。
こうした鬱憤は実力行使で対価を奪う方向へと働く。レジから金を抜いたり商品をギったりとかも同じ。IT業だとそれを技術に求めるとか、場合によっては個人情報の漏えいだったりする。*1
わかるだろうか。年収1億の人間に1000万の年収制限を科すと、1000万円分まで働いて残りを余暇として過ごすようになる。
9000万を分捕って分配できると考えていたもくろみは崩れ、結局たかる相手がいなくなって経済は失速する。ニーチェの超人思想ではないが、実際のところ超人が引っ張ってくれているから僕たちはこの水準で生活できるんだ。超人にたかればいいんじゃね?なんて考えちゃいけない。
超累進課税も同じこと。
そんな目論見はうまくいかない。というか、過去の経験から世界はそれを学んだのだ*2。
身の回りにあるもので自作できるものはあるだろうか?
一人で100倍の成果をだす人間にたかろうとすれば、当然、逃げられる。そして、そうした超人がいなくなったとき、自分たちが何もできないことを知る。
企業がなければ、目の前のパソコンなんてどうあがいたって作ることができない。10万円で買ったPCだからって、君の10万円分の労働時間で作れるだろうか?*3
そんな企業すら、開発の連中に頼っているくせに企業内で所得再配分して技術者に給料あまりださないもんだから、もっと対価をよこせって起きたのが青色ダイオードの中村修二氏の裁判と、それに続いたさまざまな発明対価訴訟なんだよ*4。
古代の人の暮らしなんてのは、周囲の道具はほとんどお手製だったろう。しかし、今や、手作りなんてものがどれだけある?部屋を見回してみても、自分では作りえないものばかり。こうしたハンドメイドに対してのオーバーテクノロジーの中で暮らす僕らが、このオーバーテクノロジーを生み出す超人をカツアゲしようとするなら、何を失うのかをよく考えよう。
飛びぬけた層より中間層
100倍の能力があっても10倍の給料しか貰えないのが実際。むしろ、能力が変わらないのに倍の給料を貰っている緩い人達が問題。つまり、敵にすべきはイチローや「年収1億」の相では無く年収1000万の相。
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そうすると能力を何で測るかが問題になる。成果主義の過ちが理解されてない。
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このあたりの話題が本質だろう。イチローを叩き潰せ!とかいう話題ではない。イチローみたいな何億ももらっている人はどうでもよくて、むしろ身近な1000万ぐらいの収入をさらっていく無能者が問題なんじゃないか。大阪府の役人の言葉も聞いて呆れる*5。
「成果主義の過ち」というのは、成果という単一のモノサシを用いるところに過ちがあった。測り方がよくないというか、人を測るというのは難しいという、あたりまえのような事実がクリアできなかったことにある。
つまりは手段の誤りであって、目的の誤りというわけではない。
世に利することなく金をせしめている人間を排除するにはどうしたらよいのか?という本来の目的を忘れないことだ。