人の生死とお金の関係

自殺をしてはいけない理由

安易に自殺を合法化するといろいろ困ることが起こる。だから社会が自殺を禁止している。精神的な面だけで考察すると思考の袋小路に迷い込む。

殺人の話もそうなんだけど、いったい誰が禁止しているのかと言えば社会が禁止している。社会にとって殺人は都合の悪い事項だから禁止しているのだ。

そもそも死ぬことから逃れるために群れを作り社会を作ったのに、人が死ぬ、しかも人の手で死ぬことを許容するなどと言うのは社会の存在を矛盾めいたものにしてしまう。

人が死ぬと財産はどうなるのか

財産は相続が認められているから、人が死ぬと財産は他の人のものになる。これは結構恐ろしいことで、人を殺すことを合法とすれば、額に汗して働くよりも強盗という安易な方法の方が稼げることになったりする可能性がある。そっちのほうが合理的に稼げるならばみなそのように行動する。*1

また、負の財産、つまるところ負債はどうなるかという話もあるのだけど、人が死ぬと負債はなかったことになるか、あるいは負債も相続される。*2

ごく簡単に考えよう。自分が貸す側だとしたらどうか。死なれては困るわけである。貸したものをあの世まで持ち逃げされてしまう。このあたりを利用して、踏み倒しを図る輩は必ず出てくる。というか、現状ですら出ているのだから。自殺を合法化するにはこのあたりがネックになるのだ。心情的な部分に関しては法はおよそ立ち入ることはない。

心理的な側面

自分は、心理的な理由による自殺はそんなに否定しなくてもいいと考えている。もちろん、自殺などと言うのは不可逆な事象なのでどれだけよく考えて決断するにしても、その決定がよかったと言えるかどうかは怪しいものではあるが。

自分が例えば、生き続けることにより周囲を不幸にする状態になったなら死ぬことを望むだろう。体が不自由で、脳もおかしくなり、ただ生きている、いや「死んでいない」というだけの状態は、死んで存在しなくなるよりも価値がないように思うからだ。ただただ生き続ける限り、生命維持に金を浪費させ、介護する家族は疲れ果てていく。

思春期における自殺は、あまり肯定する気はない。自分も思春期には死にたいとさえ思ったが、その思いは自分の存在意義を問うものであった。自分に存在価値がないことをコンプレックスにして存在価値を持とうという動機を持って青年になったわけである。

大人になった今、自分は自分を肯定できるようになったからいいものの、もしも、思春期のころに感じた無力感と同じ無力を今なお抱え、時間の経過が未来の可能性を塞いでいくジリ貧感を抱えていたなら、もうリタイアさせてくれ、と願うかもしれない。

自分の価値観は、要するに弱肉強食なのであり、自分が衰え死ぬべき時が来たら死ぬべきだろうと考えている。どのように終わるかというのは重要な事柄だ。生命維持装置に繋がれ、ずるずると生きて周りから疎まれて最期を迎えるなんて最悪の終わり方じゃないか。終わりよければすべてよしという言葉もあると言うのに。

現代の禁忌

死ぬと言うことは生物としては最大の関心事かもしれないが、感情的に反応が過敏に過ぎる。現代は死ぬことが秘匿されすぎていて、逆に不健全になっているとも思う。

願わくは花の もとにて春死なむ その如月の望月のころ

そんな風にどう死ぬかを語れるべきだろうと思う。

生きることには終わりがある。生き方を考えるということは、その最後の死に方も考える必要がある。そして、死に方を選ぶには現代は甚だ窮屈だ。

経済的な側面からの自殺禁止は致し方ないとは思う。可能性があるとすれば、許可制だろうか。銃夢という漫画では未来都市の施設として自殺センターのようなものが描かれていた。自殺を権利と認めると言うなかなか興味深い未来都市構想である。

同じようなことを考える人はなかなか多いようで公的な自殺センターができればいいのにというのも見つかった。非合法で毎年3万人自殺されるよりは、法制化した方が健全だと私は思う。

つまるところ、自殺にまつわる損得の話が困ったことになるから禁止されるのであって、その部分がクリアできているならば頃合いを見て死ぬことは構わないんじゃないか。

*1:ゲーム理論で考えればよい

*2:遺産と負債と同時に相続するか、両方とも相続しないかの2択。遺産は相続するが負債は相続しないなんて都合の良いことはできない