物語の薄っぺらさと議論

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ブクマのコメントを見たり、blogでの反応を見たりした際に、ネガティブな反応と、ポジティブな反応で全然違う感想を持たれているエントリというのが世の中にはある。

小説などの物語もそうだし、blogのエントリもそうなのだけど、文章の向こうには書いた人の思想や経験、感情といったものが透けて見える。その透けて見える思想が短絡的で思慮不足だったりすると、「薄っぺらい」と感じてしまう。

ここで厄介なのは、「透けて見えた思想」というのが読み手によるというところ。


他人の思想を批評するにあたって「こういう理由でこういう考えをするのだろう」と思想そのものが生まれ来た理由を考えたりすることもあるだろう。このとき、理由は自分が理解可能な、自分にとって辻褄の合うものでなくてはならない。だから、そもそもその行動が理解できない場合に、どうにか理由を付けて辻褄を合せようとする。

その部分を見るとブクマの感想などはとても面白い。示唆に富んだ文章を「薄っぺらい」と言ってのける人が何を見て「薄っぺらい」と判断したのか。

例えば、誤字脱字や、複雑な構成の文があって読みにくいという文章があったときに、「ろくに日本語も書けない文盲がいうことなんざろくなものではない」と、論旨を読もうとしないで罵倒する人がいる。あるいは論旨を読んだ上で「それはXXXで語りつくされた議論だし、筆者はYYYの視点が抜けており、誤った前提の下で考察を行っているから、この文章はなにも意義ある主張はできていない」と主張する人もいるかもしれない。

薄っぺらい物語

読んでみて、あー、これは微妙だな、と思った小説というのは結構ある。コミックでも読んでみてこれはどうよと思ったものは結構ある。

もちろん、1軸で評価できるものではなく、ある部分の描写がものすごく臨場感を感じたり、登場人物の心情を痛いほど理解できたりするということはある。しかし、いい場面もあれば悪い部分もあるのが常であって、名分のみで埋め尽くされたまるで傷のない完璧な小説というのはあるまい。

ある世界にどっぷり浸かった人が描き出す世界は、そのリアリティがまるで違う。そうしたリアルな世界の、こう言う部分がアツイんだというおいしい部分がうまく描けている物語というのは非常に面白い。

私が好きなマンガで「バーテンダー」というのがあるが、登場する酒は実在のお酒だし、描き出されるバーの空間はリアルそのものだ。アレは相当に酒好きじゃないと描けるものではない。囲碁界を描いた「ヒカルの碁」とかも霊と言うファンタジー要素も含みつつ、主体は囲碁界に身を置く少年の葛藤と成長を描いているわけで、そこにあるのはリアリティのある熱い想いだ。

フィクションを見てフィクションを描くな

対して、薄っぺらいファンタジーというのも沢山あって、都合よく世界を作れてしまうから、リアリティがない。リアリティのない世界で友人が死んでも、そこに「友人が死んだ」というリアリティある悲しみを描けない。死にました、あっそう、みたいな軽い世界である。

勉強して目標の大学に入れました、あっそう、とか、彼女に振られました、あっそう、とかそういう軽い物語は多々ある。

思うに、特定の事件が感動を呼び起こすわけではないのだろうと思う。とりあえず人が死ねば悲しいよね、とか安直すぎて悲しくもなんともなくなってしまっている。人間の感情を描くなら、人間のディティールをよく描き出さないといけない。人間にリアリティがなければ、人間じゃない何か別のものになってしまって、その感情もなにか別のものになってしまう。

リアルを観察して、フィクションを組み立てることが大事。物語になった時点でリアルの世界の情報は随分と削ぎ落される。フィクションを観察しただけなのに理解したつもりになってフィクションを組み立てると劣化した世界しか作れない。

システムを作る際も、顧客がどういったリアルの下でシステムを使うのかを想定して、仕様を書き下ろす。リアルな想像力がなくては使い物にならないシステム提案しかできない。モノを作るという行為は全般的にそうだと思うが、まずリアルを感じて理解して、そこから始めないとちくはぐで薄っぺらいものしか生み出せない。