議論を封殺することになる論法のサンプルがあったので紹介しておく。
このエントリーは、バカには何を言っているか分からないから、おそらく何もコメントしようがない。一方で頭の良い人には言わずもがなのことを言っているので、やっぱりコメントする気が起きないだろう。しかしうすらバカは、このエントリーの意味するところが分からないくせに、自分は頭が良いと勘違いしているから勝手に理解した気になって、その誤解に基づいた毒にも薬にもならないうすらバカなコメントを恥ずかしげもなく書き残していくのだ。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081030/1225376346
まず、先制攻撃として、このエントリにコメントを返す奴はこうだ、という予言を行っている。
- バカは理解できないからコメントできない
- 頭のいい人には自明のことだからコメントする理由がない
- うすらバカだけがコメントをする
というように先制して予言を行っている。これにより、コメントにて該当エントリへの指摘が封殺されることになる。
ここで、仮に元エントリに誤りがあり、頭のいい人がそれをコメントで指摘した、という事例を考えてみよう。
予言によりコメントを行った当人は「うすらバカ」と認定される。そして、「うすらバカ」は理解できないのに「自分は頭が良いと勘違いしているから勝手に理解した気になって、その誤解に基づいた毒にも薬にもならないうすらバカなコメントを恥ずかしげもなく書」くのだから、書かれたコメントは、当然ながら誤解に基づいた毒にも薬にもならないコメントだ、ということにできる。
もちろん、どこかおかしいかと言えば、「予言」が誤っているわけだが、「予言」が誤っているということを指摘する行為が無効化されることになるので、一切の議論が封殺される。
同様の構図は、いろいろな詭弁に見てとれる。これは宗教の教義などにも応用できる方法論で、協議に疑問を持つのは信仰が足りないせいだ、というような詭弁が可能となるのである。こうした中で科学は客観的な正しさを求めて苦心したという話がある。