自分を当事者とした客観論は無理だろうな

 感情的にならずに論理的に議論したら?という提言に感情的に反論されると、その行動そのものが議題と重なるので「これはよい例が手に入った」と思って議題の追補としてサンプルにしたくなる。しかし、それがいかな客観的な思考から行われたものであれ、第三者からは「自分の意見を庇護するために自分に反する論を封じようとしている」ように捉えられて存在しない感情をそこに見出す人が出てきて紛糾という事態が起こる。

 そんなわけで、そういうナイーヴな話題の部分は避けるようにしていくつかの論点を拾っておく。

letterdust 「普段考えないような議題で感情的な議論の失敗を経験」ならいっそ人権問題やろうぜ。部落問題とか在日外国人とか障害者とか女性の働く権利とか織り込んで。ヤフー掲示板みたいなこと言う輩に反論する技術を研く!

 人権問題も同種のテーマのひとつだろう。私としてはホモ・フローレシエンシス*1が絶滅せずに生きていたら人権はどうなるのか?というあたりのテーマとかをやってみたい。ホモ・フローレシエンシスはジャワ原人からの派生とされ、我々ホモ・サピエンスとは系統からしてかなり違う種だ。動物学的な「種」が違う知的生命体という厄介な存在が発見された時に、黒人・白人とかのレベルを超えた価値観の転換を迫られることになる。

yuuboku 対話, 人間形成 なんだろ、「真の平和のために戦争を経験しておくべき」という文が見えてきたんだけども。

 取り返しがつくセーフティな環境下での「戦争」が可能ならやればいいんじゃないだろうか。問題は本来避けたい「戦争」などの事象の理解の為に、どの程度のコストを払えるかということだろう。そう言う意味では「戦争」の小規模体験をして悲惨さを体験するというのは実現不可能に思える。

議論のデモクラシー

 この表現はとても面白いと思った。論理的な答えを求めるよりも感情のぶつけどころを求めるようなデモクラシー、つまるところ民主主義が発生する。

 先のエントリで私は孔子ですら七十耳従なのだから、ナイーヴなテーマは利害に基づいて感情的になってしまうものだろう、とこのデモクラシーについての分析を述べた。

 議論のデモクラシーは議論のアンチパターンのひとつに挙げられるだろう。デモクラシーという同調圧力のもとで、論理的かどうか、無矛盾かどうかは意味を成さない。多数派の暴力がいかんなく発揮されて、敵を探し出して血祭りにあげる。くわばら、くわばら。

*1:インドネシアに森に小人が住んでいるという伝説があるのだけど、化石としてチンパンジー大の人類化石が発見された。この小人の目撃談は近代でも報告され、実はまだ森の中に生き続けているのではないか、とも言われる