判断するということ

 僕はシステムの開発を生業にしているのだけど、普段何をしているかと言えば「判断」をするのが仕事というむきがある。

 というのも、システムを作る過程において、やりたいことというのがぼんやりと示されるだけで、それをどのようにやるのかを決めなくてはならない。また、作っていく過程で発覚する技術的な問題点、設計のミスなどをどういうふうに対処するのか、そういうことを誰かが決めなくてはならない。

 誰かが決める。この誰かというのが問題で、現場で勝手な判断をしたらそれは当然怒られるわけだし、かといってすべての判断を上へ上へと全部投げて、指示がないことには何もできません、なんて人は使えない。いや、なんたらと鋏は使いようとも言うけども。

 結局、自分が任されている範囲で、上がってくる問題をどう対処するか判断して、指示を出さなくてはならない。手に余る事項は上に投げなくてはいけない。Javaで言うところのtry-catch句とExceptionみたいな感じ。まぁこれは別にシステム開発に限った話ではもなんでもなくて、世の中なんでもそうなんだと思うけどね。

よく分からないなら右へ倣え

 判断をするためには相応の見識がいるわけで、まぁ世の中どんな仕事でもそれなりの経験を積まないと判断できないことはざらにあって、僕は僕の仕事については判断できるけども、異業種の仕事について判断するなんて当然できやしない。

 いや、判断して決断して行動することはできるかもしれないけど、それでよい結果を出せるかというと、運任せだという話。

 インフルエンザにかかりました。よし、祈祷をして治そう、という判断をする人が過去にはいた。というか平安時代ぐらいには大真面目にそんなことをしていたわけだ。だが、そんな判断じゃよい結果はでないよ、というのが現代の僕らには分かる。*1

 この例からわかることは、判断を下す人というのは、そのジャンルにおいて見識に基づいた判断が下せる自信がある人か、あるいは、根拠なしの言説を吹聴できる確信犯*2か、果ては誤りと分かってて嘘がつける詐欺師か、ということだ。

 自分がそのジャンルに詳しくなければ、とりあえず専門化かあるいは専門家らしく自信満々に振舞う人に倣っておけ、というのは多くの場合、正しい。何も出来ずにおろおろするよりは右に倣えのほうが生存に有利だったからこそ、僕ら人間には右へ倣えの遺伝子が組み込まれているのだろう。*3もちろん、それが常に有効な解決策ではないことも僕らは知っている。

守破離

 守破離の話にも通じるけど、とりあえずは習い守るところから始まる。どうやって破に移らせようか。どうやって試行錯誤をさせようか、ということをプログラミングの教育課程を構想しながら思う。

 守に留まる人らを前に、同調圧力を前に、異論を唱えることは難しい。

 そういう意味で、京大のインフルエンザへの対応姿勢は、学問の府としての大学の威厳を見せたものだと思う。それでこそ、学問の府と言える。

 職場の原理主義者 - mmpoloの日記なんて話題があったけど、そこで改革を叫ぶことは確かに難しい。何か尊大な肩書きでも持ってコンサルです、俺の話を聞け!とやれればまだしも、その職場で育った人間だとことさら「この間まで右も左も分からなかったような奴が何を言う」みたいに言われかねない。

 何かを判断して右へ倣わせたければ、俺に倣えば得をするぜ!をアピールしなければいけないし、アピールするには、騙されたと思って俺に倣ってくれよ、と言わなければならない、鶏と卵のような話もある。それでも、改革をなしたかったら地味に自分の策の有用性を大盤振る舞いしてでも理解してもらわなければならない。

 人脈を築くために一番大切なこと - GoTheDistanceでは相手に何かを与えられることの重要さを説いている。もちろん、予備知識なしの初対面で相手に自分はあなたにこういうことをしてあげれます、ということをいきなり理解してはもらえない。だからこそ、まずは大盤振る舞いをしてでも自分の有用さを伝える。

 そして、その有用さってのは、つまるところある種のジャンルで自分は判断ができる、ということだったりする。いやまぁ湯水のようにカネを突っ込むという人はそれはそれで重宝されるだろうけど、そういう人は絞られるだけであんまり信頼はされないんだよな。人の能力に信頼を置く、というのはその判断力に因るところが大きい。*4

んでプログラムの話

 技術調査とかを若い子にやらせたりするんだけど、こういうときはこうなる、みたいなのはちゃんと調べてレポートしてくれる。だけど「なるほど挙動についてはよくわかった。ところでXXXをしたいのだけど、行えるかどうか、君はどう判断する?」と問いかけると、歯切れの悪い答えしか帰ってこなかったりする。

 判断するのに十分な材料を、今目の前に自分でレポートしているのに、だ。

 今この瞬間、手を動かして挙動を確認した本人が一番よく前提条件を把握している。なのに、その調査結果を受け取ったアーキテクトに「判断する」を持っていかれてしまっている。そこ。そこなんだよ、超えて欲しいハードルは!

 自分が苦労して調べた事項にぐらいは、自分なりに考えたことを言って欲しいな、と思う。もちろん、他の視点を投入した場合にどうなるか、とかそういう巨視的なところを判断するのがアーキテクトなのだから、そこは突っ込まれる覚悟がいるかもしれないけど、そのジャンルカテゴリについては対等、いや主導権をとって議論してもらいたいものだよね。

*1:僕は多くの人は分かってくると信じているけど…。現代でも祈祷に頼るような話をしている人がいる噂がががが

*2:それが正しいことだと確信して結果として犯罪を犯すような、本来の意味での確信犯。平安時代の祈祷師は確信犯か詐欺師だ。

*3:行動心理学的には右へ倣えという行動を人間がとりたがることが知られている

*4:判断力に信頼を置いている場合は「相談する」で、技能や所有物が有益な場合は「利用する」になりがち。