声の大きさと言葉の怖さ
テレビ関係者らしい名前も聞いたことのない人が、何様なんだか、何があったのかよくわからないけど、はてなでガツンと言ったとかなんとか。
ぼくが何を申し上げたかというと、それは「言葉の怖さ」についてだ。
言葉は本当に怖い。しかしはてなはそれについて無自覚すぎる、あるいは知らなすぎるということを申し上げた。それが大変に危険であると申し上げた。いつかそれで深甚な影響が出るのではないかと危惧していることを申し伝えた。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090611/1244726606
この後、この人は言葉の怖さについて説き、ナイフのようで無邪気に弄れば誰かを深甚に痛めつけてしまうことがある、とその怖さを述べている。もちろん、言葉は人を傷つけるが、言葉の真の怖さはそれが増幅されたときだ。
任侠の世界ではないが、声の大きな人が黒いカラスを指差して白といえば白、となってしまう言葉の恐ろしさというのがあって、マスコミはその声の大きな人なのだということ。納豆ダイエットがねつ造だった事件は有名だけども、これこそ効果がないのにあると言ったら効果があることになってしまう言葉の怖さ。
友人間の会話だったなら、冗談で済んでいたことが、大きな声で叫んだら恐ろしいことが起こりうる。それが、それこそが真の怖さではなかろうか。
インターネットでの声の大きさ
これがインターネットの世界だとどうか。アルファブロガーと呼ばれる、多くの人が言動を見ている人がいて、その人が何か口にすればそのテーマがあちこちに波及する。
が。しかし。
アルファブロガーの言動は、多くの人が見てはいる。が、信じてはいない。*1ここが今までのマスコミュニケーションにおける「言葉の怖さ」とルールが異なる点だ。アルファブロガーが「ガツン」といえば、あちらでもこちらでも「ガツン」というキーワードが流行するが、それは崇拝して広めているのではない。もちろん、その言動がまことに素晴らしいもので、皆が同意してガツン、ガツンと広めることもあるだろう。だがしかし「ガツンとか、何いってるの違うだろ」といったような反論の形で広がることがあるというのがインターネットである。
これは風説さえもが真実になった言論統制可能なマスコミ全盛の時代との決別だ。大きな声で風説を語れば、世界中に反論が響き渡る。声の大きな人に対して、声の小さな人の反論が無数の集合となって突きつけられる。はてなブックマークにはそういう「怖さ」がある。*2それは「言葉の怖さ」というよりも「論理の怖さ」なんじゃないだろうか。それをネガコメ*3とか見当違いの分析をしていると大きく対応を誤る。
ネットでは、傷つける言葉が増幅され致命傷になる、という今までの世界での怖さとはちょっと違う。インターネットで増幅されるのは「論理的正しさ」なのではないだろうか。罵詈雑言を大声で叫べば、罵詈雑言を叫ぶお前がおかしいという形に変えられて増幅される。誰かを傷つけようとしたら、流血してたのは自分だったということになりかねない怖さ。
声の大きな人が嘘を本当にできた時代がさり、嘘を本当にする力を失う側に立っていた人は何を言うのか。2010年あたりからの10年間という時代をそういう視点も交えて見てみると面白いのではないだろうか。