群衆との対話、か。なるほど

NyaRuRuさんは技術的にも敵わない人だけども、技術の話ではないときの視点も鋭くて好きだ。the Crowds との対話チャネル - NyaRuRuが地球にいたころが面白い。なるほど、見えない敵と戦っている人がいたときに*1、その戦っている相手は群衆("the Crowds")なのではないかというのは説得力がある。

議論をするならその対象を注意深く取り扱うべき - プログラマーの脳みそでは、議論をする際に個と集団の違いを混同しちゃいけないってことを主張したのだけども、ロジカルな部分をひとまず置いておいて、人としての感性としては群衆というものをついつい想定してしまうよね。

そうやって人をカテゴライズすることで、僕らは情報を整理しているように思えるのだ。例えば「Java屋」という群衆を想定するとして*2、彼らの特色は〜というイメージが脳内に作られる。個々のJava屋の人間は、その共通イメージをベースとして、必要な差分だけをオーバーライドしたように捉えているのかもしれない。

「これだからXXは」なんていう物言いが限りなく大量に使われるのは、人間の基本機能としてのカテゴライズ能力に基づくからではないだろうかと思うのだ。*3

とにかく、ある集団に名前を付けて、自分の主観に基づいて最大公約数的人格*4を想定してしまうのは、人間の脳みその驚くべき能力のひとつだと私は考える*5し、また、ひとりの人間としてこの能力のデメリットの部分と向き合わなければならないとも考える。

なお、NyaRuRuさんの稿ではGoogleのようなクローラがその群衆によくマッチする人へのリーチャビリティを提供する時代がくるのではないか、群衆との対話チャネルが技術によって作られるのではないかとほのめかしている。
んー。とてもエキサイティングな未来予想だけども、実際にそれが出来上がった時に、炎上がそこらじゅうで起きてネットは火の海に包まれるかもしれない。

*1:戦うっていうのは私の捉え方。NyaRuRuさんは対話と表現している。

*2:静的オブジェクト指向は設計者が苦労を背負込むシステムで語っているけども、Java屋はクラスを設計する人間とクラスを利用する人間で大きく分断されている。Javaを主体として使う人を考察する場合、この両側を区別して論じる方がいくらかは実態に迫れると思う。

*3:木を見て森を見た気になるのは人間の本能 - プログラマーの脳みそでも、人間の脳みその中身をAI的に捉えて考察している。

*4:本当はオーバーライドでの置き換えもされるから公約数ではない。何といえば正確なのだろう。傾向?

*5:同じことをプログラムでやろうとすれば相当に難しい。人間の脳みそはそういう難しいことを平気でやるようなコプロセッサが大量に積まれている。