反応するものに弱いんだよ

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/science/144883を見て思い出した。AIBO(1999年)の例もあるけども、人間というのは機械であってもその反応に対して愛おしく感じるもののようだ。

子供のおもちゃなんかそうなんだけど、ボタンを押すと声が出るようなおもちゃって、飽きるまで延々とボタンを押してその反応を楽しむんだよね。子供って。
人間の感じる生物/無生物の境目ってのは、どうもこの辺のような気がする。

プログラムでそれっぽい反応をさせるというものに人工無能とかあるんだけど、つついて遊ぶには楽しい代物。うずらっていう人工無能が結構人気。

んで、急に俗な話になって申し訳ないのだけども、なんでギャルゲーはインタラクティブストーリーにならなかったのかって話題があって、恋愛感情なんてのは人との触れ合いの最たるものだから、「恋愛シュミレーション」なんて言うからには物語を読み進める受動的なビジュアルノベルじゃなくて、インタラクティブな方向性に行くという選択肢があった。しかし現にそういう方向性に向かっているわけではないのはどうしてかということを考察している。

シミュレータとして考えたときに恋愛 SLG って体験の密度が、必然的に ADV よりも薄くなるわけなんだよね。よくできてるゲームには生っぽい感動があって、それは換え難いものなんだけど、そういうゲームでも「感動的でもなんでもない単なる退屈な時間」とか「悪くはないんだけど食い足りないイベント」とかを見ている時間のほうが、間違いなく圧倒的に長い。一回のプレイ中に必ず情緒的なピークがやってくるという保障もない。

http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080509#p1

というのは鋭い考察で、ゲームというのが、よしやるぞ、さぁやるぞと意気込んでモニタに向かって行われるというのに、そこで流れる時間の大多数がまったりとした無為な時間というのはちょっと娯楽として成り立ちにくいんじゃないのと思う。

偶然をじっと待つなんてのじゃなくて、クライマックスだけ都合よくかいつまんで楽しむという接待のされ方の方が世の中的な需要は多いかもしれない。*1

インタラクティブ性を持ちつつも時間拘束をしない

そういう意味では、つついて反応があって、かつ、あんまり拘束されないという方向性でブログ妖精ココロとか伺かとかデスクトップマスコットの類の方向性はある程度当たっているように思う。

しかし、伺かの元になっているペルソナウェアが構想が1993年でリリースが1998年だ。2008年現在からして何と10年も前の話だったりする。この10年でマシンスペックは飛躍的に高くなったし、ネットワーク環境も高速になった。でも、それを活用してインタラクティブな触れ合いが行えるソフトウェアの決定版のようなものが未だないわけである。

ガンパレードマーチという試金石

仮想世界でAIの成す人格が物語を作るという試みは、多分多くのプログラマが考え、その難易度から挫折したテーマとも言える。

そんな中で、実際に製品としてリリースされたゲームがある。2000年にプレイステーション用ソフトとして発売されたガンパレードマーチがそれだ。

このAIによってドラマを作り出すというシステムは当時話題になったが、こうしたシステムが普及しないのは、やはりそのシステム的な難易度の高さからだろう。

その手の業界では人工少女3がそれにあたるわけだが、プレイヤーとAIとの触れ合いに対してそれほど自然な反応を演出できているわけではない。プログラマーならば、内部システムの複雑さや難しさに思いを馳せることもできるだろうが、専門外の人間にしてみれば期待外れといわれてもやむなしと言えよう。

ユーザがつつくことで反応を返すというキャラクタは作ることには作れる。しかし、つつくと反応するAIを集団にしたからと言ってそこにドラマは生まれない。ドラマが生まれるようなAI間の相互作用を作ることは凄まじく難しい。それぐらいに人と人との相互作用は複雑なものだし、だからこそ人間関係の維持は面倒なのだ。

リアルにそれを作ったら、少なくとも現実逃避の受け入れ口というゲームにはならない気もする。

機械で作るのが大変なら人間を使えばいいじゃない

などと言った人がいるかどうかはわからないけども、人間なら簡単にできることなら人間にやらせてしまえというアイデアが出るのは自然な流れと言えるかもしれない。*2

ネットゲームとかはそういう代物だ。一般に広く認知されたのはラグナロク(2002年)かもしれない。Windows95が出てインターネットが徐々に普及しつつあった時代までさかのぼる。
始祖のひとつとされるウルティマオンラインが1997年らしい。私は当時はディアブロとかやっていた。このゲームは4人までのパーティだったはずだから、ネット上に社会を作るような方向性ではなかったけども。

なんど話しかけても「XXのまちへようこそ!」と言い続ける町の人に象徴されるような、作られたシナリオによるRPGへの対抗勢力のひとつとしてネットゲームはあった。しかし、ネットゲームなんてのは、モニタの向こうにいるキャラクタというのが人間なわけで、AIだと知って好き放題できるようなゲームとは違い、ゲームの中でもリアル社会同様に相手を気遣った行動が要求される。

チューリングテストがクリアされる日はまだ遠い

で、ゲームならではのリセット感というか、あのAIなんだからやり直せるしなかったことに出来るよっていう感じは、やっぱりAIでないと作れないわけで、恋愛とか性的な部分とかはそういうものの方が安堵感があっていいのかもしれない。

それは人と触れ合うような感触を感じられつつも、でもゲームのようにリセットできるという矛盾した要求。でも、多分、非常に多く求められている要求だとも思う。

結局、表に数字が出ているようなRPG(力が50とか)じゃなくとも*3、やっぱりアルゴリズムを相手にしている時というのは、つつき方に対する反応が容易に想像できてしまうわけで、まるで人間らしくない。

そうした反応の自然さ*4を出すってのは、チューリングテスト(大雑把にいえば、相手がAIか人間か区別が出来ないってこと)をクリアするような能力が求められるのかもしれない。そして、それは水商売の仕事を機械化するようなものかもしれない。

*1:だからこそその逆を作りたくなるのはエンジニアの性かもしれない

*2:エログリッドとかもそういうアイデアだし

*3:古いが魔導物語(1990年)とか。数値が隠されていて様子を見ながら〜というシステムにしてもやっぱり対して変わんないよ

*4:4足歩行ロボットのBigDogが蹴られてよたつく様とかはすごく自然な反応で可哀想とさえ思える。仕草ってのも重要なファクターなのかな