ねじれの位置なエントリ

 僕のblogのエントリなんてものは、何かを見たり聞いたりして思い起こされたものを書きなぐったようなもので、ネタ元として提示するblogエントリは、おおよそ想起させる元になった程度のものであったりする。

 なんせ、その人の書いたことをそのまんま同意したとして、同じ気持ちを文に綴ったら、劣化コピーにしかならないと思うわけで、ある種のオリジナリティを持った文でなければ書く意味もない。*1だからこそ、連想ゲームのように形を変えもはや元ネタとはなんらの共通点も見いだせないようなエントリを想起して書いたりするわけだ。

 いや、価値観なんて大層なもんじゃない。その人の向いた、見据えている方向に、同じく視点を定めて何かを書くということのほうがよほど難しい。同期しつつ同調しないなんてのはどれほど難しいことだろう。たった5Kbyte程度*2の文字列に人柄の情報を圧縮しきることは無理だし、だからこそ同じ方向を見据えて、「一方向」ではない批評批判をすることは至難の業と言える。

 むしろ、アルファブロガーなんかは同じ方向を見ようなどとは全く考えておらず、我が道を行くエントリを書き綴っている。話に交点もなければ、平行線となるわけでもない、ねじれの位置のエントリばかりではないか。実に一方的な。しかし、ねじれは進化論的な突然変異の原動力でもあるように思う。多様性のない世界は1bitに圧縮してしまえるほどにつまらない。

 ねじれることに不満をもつのは正しい姿なのだろうか。僕にはよくわからない。同じ線の上を正反対に批判されるのとどちらが辛いのだろうか。正しい方向に引かれた線は、みなが賛同してくれる。誤った方向に引かれた線は、みなが酷評する。同じ方向を見据えること、その意図が通じたかどうかは評価の是非とは関係がない。ねじれようがねじれまいが、向いている方向がおかしければ、それは酷評されるんじゃないだろうか。炎上するんじゃないだろうか。

 世界の多様性の為に、ねじれたエントリを書こう。しかし、想起された元ネタを紹介する時は注意しよう。図らずとも誤解の上で批判されたと思わせてしまうかもしれないのだから。

*1:というのは私個人の価値観であるが、他の価値観は当然あるだろう

*2:このエントリを想起するに至ったエントリがこの程度の情報量だった