「ネットは嘘ばかり」とdisる人は観客気分なのではないかという説を考えた。
自分が無条件にもてなされる側であると考える限り、自分をもてなす連中が過ちを犯せば「失礼な奴だ、どうしてくれる、弁償しろ」と罵れる。
なかなか可笑しいのは、それをblogに書いた人間だ。自分が客であったのに、供給側に回ってしまった。となれば、同じ論理で「嘘ばっかりだ」とdisられる。
そういえば、キリストの「罪のないものが石を投げなさい」の逸話は、自分はなんとなく対称性の話だと記憶していたのだけど、振り返るとどうも違う。http://www4.ocn.ne.jp/~vine7/essay/kannin.htmlあたりを読むと、なんだかもっと俗な話のように思えてくる。もっともキリスト教は気持ち悪いぐらい愛、愛、愛なのだ。対称性もなにもなくひたすら許す、そういう世界なわけで、「されたくないことを人にするな」というような合理的な対称性を求める世界ではない。
人のことを嘘つき呼ばわりしながら嘘を並べる奴は、恐らくその自分の非対称性には気づいていない。*1ジャイアニズムという奴だ。嘘というか、誤った情報を流すことが罪だとして、誤報をしたことがない者だけが誤報を責めることができるのだとしたら、それは供給側に回らない観客だけが石を投げることになるだろう。
バグを作ったことのないものが石を投げなさい - プログラマーの脳みそではその観客から投げられる石の辛辣さをネタにしたものだが、他に対称性を持とうよというメッセージを込めたつもりだった。もっとも、その点に関しては私の理解が誤っていたというオチがついたわけだが。
*1:気づいててやれる奴の気がしれない。自覚してなおやり続けるなんて。