脳みそのアルゴリズムを考えよう

よく、人間の脳みその思考アルゴリズムを考える。

人間の脳みそというか、ようは人格ってのはブラックボックスで、入力と出力しかわからない。こう入力したらこう出力した、という事実だけが得られる。

そこから、どうしてそのように答えるのだろう?どういうロジックだとそう答えられるのだろう?と考える。自動テストのテストケースを与えられて、それに通るプログラムを記述するような感じ。

例にプログラムを挙げたが、同じようなことは、別にプログラマじゃなくてもやっているはず。こいつはこうだから、こういうことをする、という予測を立てるわけ。

通常は予測に収まっていて、その場合は「理解している」と解釈するわけなんだけど、その予測を外れた動きをした場合に、どうにかしてその動きも説明できる新たな論理体系が求められる。ここで起きるのがゲシュタルト崩壊

人間は矛盾が大嫌い

人間はたぶん、ゲシュタルト崩壊中などの矛盾をはらむ状態を嫌う性質を備えている。どうにか辻褄を合せたがる。その論理の誤りを指摘されることを嫌う。矛盾が新たに発生するのだから。

これは、視野偏狭に陥って袋小路に迷い込むことをある程度説明できることだろう。外部からの指摘を「奴らは悪意があって俺を騙そうとしている!」とか思いこんでシャットダウンすることで、自分の論理を保護する政策。

この袋小路に迷い込むと、抜けだす手がなくなる。「自分を変える」という選択肢を放棄しているのだから、誤った論理をゲシュタルト崩壊させ、より正しく組み直すという可能性を失ってしまっている。外部からのゲシュタルト崩壊の示唆が期待できないとなれば、あとは内部から自然崩壊するのを待つしかないだろう。

ジャイアニズムがなくならないわけ

ジャイアニズムドラえもんジャイアン式の自己中心思想を揶揄していう言葉なのだけど、これがなくならない理由は、ジャイアニズムは「鏡のない系で矛盾しない」からだろう。

一方向性の要求というのは、鏡に映して、つまるところ相手と立場を入れ替えて考えてみると、たちどころに矛盾を起こし、ゲシュタルト崩壊なんだけど、そうした鏡がない限りは矛盾が露呈しない。

「人を一方的に罵倒する」という行為を是とするなら、「人から一方的に罵倒される」というのもまた是としなければならない。相手と対等の関係を結びたければ、まずは譲歩する必要がある。こうしたことは子供のころに友達と喧嘩しながら学ぶ。

つまり、第三者という「人」こそが鏡となって、その論理はおかしいよ、と指摘してくれる。そこを断ち切ってしまうと前述の視野偏狭に陥ってしまう。

人の行動を予測する「侮った論理」

他人を理解するために、こういう入力に対して、こういう反応(出力)を返すという予測はだれもがしていることだろう。これは社会性を得るための基礎能力だと思う。

だから、とにかく、少なくとも自分の中では矛盾のない、予測を当てるための論理を持っているはずだ。それが正しいかどうかを保証するのは、多くのケースを「矛盾なく説明できるかどうか」に限られる。

他人の行動を予測する論理のひとつに、「侮った論理」というのが挙げられるだろう。矛盾が生じる事象を観測したときに「馬鹿だから」と侮ることで補正する方法というのが考えられる。これは、矛盾点をロジカルに解決しないが、ゲシュタルト崩壊という辛い事象を介さずに、とりあえず目の前の事象を片づけることができる。

人の行動を考える上で、「侮った論理」に陥らないように気をつけなくてはならない。矛盾点を「馬鹿だから」で解決すると前述の視野偏狭と同じく袋小路に迷い込む。

誤った論理を訂正させられるか?

例えば、「視野偏狭」や「侮った論理」に陥った人がいたとして、その論理にゲシュタルト崩壊を起こさせることは可能だろうか?

少なくとも、その論理でもって行動説明ができる限りはその論理が正しいことをその人は疑うことがないだろう。ゲシュタルト崩壊のためには、説明がつかない行動を取らなければならない。

しかし、その説明がつかないゲシュタルト崩壊のきっかけを、視野偏狭ではノイズとしてカットし、無かったことにしようとする。「侮った論理」においては、「馬鹿のやること」と侮ることで無かったことにしようとする。

数の圧力

心理学の実験で、面白いものがある。

周囲にサクラを用意して、自信満々に誤った答えを言わせる。これは被験者にとって明らかに誤りと分かる答え。たとえば「5x9=」という問いに「35」と答えさせる、といった感じ。これを数人のサクラに順にやらせ、被験者に答えを聞くと多くは「35」と答えてしまう。

これは、同調圧力と呼ばれる事象で、この圧力をかけることで、あるいはゲシュタルト崩壊を強制させられないか?というアイデアである。

例えば、はてなにおいてはブックマークのコメントというものがある。多くの人間が同調圧力でもって「間違えている」と訴えた場合、「間違えていると言っている奴は皆分かっていない奴らだ、馬鹿ばっかりだ」と言い続けられるだろうか?ゲシュタルト崩壊まで到達できるかもしれない。

しかし、それでも、「愚衆は皆馬鹿で自分の正しい理論を理解できない」という論理で持って、ゲシュタルト崩壊を防ぐ壁を築きあげるかもしれない。あるいは、そうならないためにブックマークコメントといった鏡となりうるものに近づかないようになるのかもしれない。

相手を見て応対する時

ジャイアニズムは鏡のある世界で矛盾を露わにすると述べた。鏡を割りつくすことでジャイアニズムがままにゲシュタルト崩壊を防いで非対称なふるまいができることを示した。鏡を割る方法として他人を「愚衆」と見做すような手法があることを示した。

相手にマウンティング*1をするならば、相手の反応をうまく捉える必要がある。うっかり相手を侮って「レミング*2で自暴自棄の死の行進をしているだけ、などと「侮った論理」で捉えてしまうと、いつまでもマウンティングも成功させることができない。

また、問題解決のためのロジカルな議論を行おうとするとき、悪意のない事実の指摘にカンカンになって反論するような相手かどうかということも注意したい。そうした相手のマウンティングに付き合っていたら、出る結論も出なくなるし、無理が通って道理が引っ込むこともある。

*1:マウンティングはヒトのオスの本能 - プログラマーの脳みそで説明しているが、議論を問題解決ではなく、相対的な上下関係を決定づけようとする行為と勘違いして単なる言い争いになる様を揶揄して言っている

*2:「竹槍を持って背水の陣を敷いて勝ち目のない戦いに延々と突撃し、死の行進を行うブロガー」といった意味合い。私は単に論理を守っているだけなのだが、罵倒で倒せず、その様を見てゲシュタルト崩壊した罵倒系ブロガーが用意した「侮った論理」正体は単純で単にロジカルな部分を守っているだけ。