「嫌だ!」が論理的という話
(注意)以下は、ある人物の主張を正しいとするならばこのような解釈になるのだろうかという仮説であったことを断っておく。現在、僕はこの仮説を放棄した点も断っておく。
論理的とは何か、といえば論理・的なのだから、
1 論理に関するさま。
ろんりてき
2 論理にかなっているさま。きちんと筋道を立てて考えるさま。
ということになる。論理とは何か、というと
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。
ろんり
2 事物の間にある法則的な連関。
3 「論理学」の略。
ということになる。ここで論理学で扱う対象という意味合いでとるとカテゴリが多すぎて泣きたくなる。
弁証法的論理
論理学 - Wikipedia
形式論理
数理論理学
二値論理
多値論理
様相論理
演繹論理
帰納論理
命題論理
述語論理
量子論理
虚偽論
非形式論理学
因明 - 仏教論理学
直観論理
が、ここでは議論について語るので命題論理をとろう。
命題論理において問題になるのは、個々の命題の「意味」よりも命題を「かつ」「ならば」などの論理演算子で関係づけたときにどんな推論ができるか、ということである。
命題論理 - Wikipedia
となると、論理的というのは
1 命題そのもの
2 命題を正しく論理演算した推論
のいずれかである文ということになろうか。では命題とは何か。
論理学あるいは哲学において、命題(めいだい、英語: proposition)とは、平叙文の「内容」あるいは「意味」、若しくは平叙文を構成する「記号、模様、音などの並び」のいずれかを指す。いずれの意味の命題も、それが真か偽のどちらであるかという真理の担い手となることを目的とするものである。西周による訳語の一つ。
命題 - Wikipedia
なんか硬いな。分かりにくいけど、例を見れば結構単純で
アリストテレス論理学において命題は、主題の叙述するものを肯定または否定する、特定の種類の文である。アリストテレス的命題は「全ての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」というような形を取る。
命題 - Wikipedia
真偽を問えればいいんだね。
というわけで、「私はXXが嫌である」という感情の発露は命題たりうる。つまり、感情の発露は「論理的」ということになる。
なぜそんな話になったのか
なぜこんな話をしているかというと、twitterでとある人等に「嫌だ!」は論理的だと諭されたからなんだ。そこで自分なりに調べてみた。
なるほど、言葉の定義に厳密になるのであれば「嫌だ!」が論理的といえなくもない。が、そもそもどういう文脈で「嫌だ!」が論理的と言われたのだったか。
という話の流れで言われたものだった。
ということで、このあと「嫌だ!」が論理的とはどういうことかヒヤリングしてみたところ、どうやら冒頭のような理屈らしいと思えてきた。
さて、「嫌だ!」が「論理的」と言われても一般的な感性からすれば違和感を覚えるだろう。この違和感はなんなのかを考えてみた。
論理的の多元解釈
自然言語の宿命か表現にはいくつもの解釈をする余地が生まれる。僕は自分が「論理的」という言葉で表現したかったものはなんだったのかを考えなおしてみた。それは「命題そのものだ」といいたいわけではない。「命題を正しく論理演算した推論だ」ということを言いたいのだった。だって議論したいんだもの。命題を並べるだけじゃなくて「だからどうなる?」をいいたいのだからね。
これは、先に挙げた
1 命題そのもの
2 命題を正しく論理演算した推論
のうちの1であることではなく、2であることを求めたいということだ。1も2も論理にまつわるから「論理的」といえなくはない。
先の話では「議論を進める」話だった。議論をすすめるという文脈で論理的というと、ただ命題であるだけではお話にならない。原発を止める・止めないの話をしているところに「ソクラテスは人間だ」なんて命題を出して「論理的だ!」とか言ってもつまみ出されることになる。議論をすすめるという文脈なら当然ながら論理的なただしい推論を行え、という意味で「論理的」という表現を使う。が、そこで「ソクラテスは人間だ」は命題であって論理的だ、なんてことを言い出したら今なら「空気を読め」と言われるだろう。
1も2も論理の枠組みの中にある。だから「論理的」と表現することができる。だが、2を要求されたところに1をあてがって、それでよしとするのは詭弁に他ならない。
A「議論が進まない」(論理的な推論をしろ)
B「嫌だ!と叫ぶだけでいい」 (命題だから論理的だ!)
このすれ違いがまさに違和感の正体だということだ。
感情からの演算はどこに辿りつけるのか
「嫌だ!」からの演算で何かなせるのだろうか。「嫌だ!」というのは「私が、今時点で、嫌だ」ということだ。「所有物で嫌なものは捨てるべき」という命題が真であるとしよう。この私の「嫌だ」を「原発が嫌なので捨てるべき」としたら論理の飛躍がおこる。原発が個人の所有物ではないので、個人の「嫌だ」を汎化して皆の「嫌だ」にすげ替えたのが飛躍だ。
ある個人がそう感じた、という感情は、その個人に閉じた話であれば有効な議論が可能かもしれない。でも、汎化が困難であるため、感情の発露という命題を議論に活かす術がない。と、いうのが現時点での僕の答え。
議論に感情を持ち込むと紛糾することはよく知られている。だから議論に感情を持ち込むと「論理的でなくなる」と表現してしまいがちだ。ところが、感情の発露は「命題」たりうる。論理学の俎上にのりうる。なので「論理的」と表現されても間違いではない。じゃぁ、議論に感情を持ち込んでも論理的なのか?というと激しく違和感を覚えるだろう。それは「論理的」という表現にはブレがあることが原因だということではないだろうか。
「感情は論理的ではない」という主張は揚げ足をとられるということだ。
「感情からは論理的な推論ができない」と表現を修正してもまだ足りない。感情を起点に論理的な推論を行うことは出来るからだ。
「感情からの論理的な推論では汎化できないから主題になんらの意見を言えない」といった表現ならば…。まぁこういうややこしい表現をした時点でどうかという話。誠実な議論をする労力に対して揚げ足をとることが楽すぎる。困ったもんだ。
まとめ
- 「命題である」ことを「論理的」というのであれば「嫌だ!」は「論理的」たりうる。
- だが、議論を進めるという文脈での「論理的」とは「命題である」ことを求めているわけではない。そこから正しい演算でもって主題にコミットメントすることが求められる
- なので、議論をすすめる文脈で「嫌だ!」は「論理的」だから「論理的な議論をする」には「嫌だ!」で足りるは詭弁。前者の「論理的」と後者の「論理的」が違うものだからだ
- 感情は個人の主観であるためにそこから論理演算で汎化することは難しい。そのため論理演算で議題にコミットメントするための素材としては役に立たない
- つまり、議論に感情を持ち込んでも主題を補強・修正・否定する役に立たない
ということだろうか。論理学ってよくわからないね。難しいや。