感情を喚起するテーマを冷静に議論するのは難しい

 某グループディスカッションの話題で私が考えたこと。

失敗を体験する価値

 まず、前置きとして、教育論。失敗事例を安全な形で体験するということは大事だと考えている。

 こどものころの喧嘩などは、そういう「加減を知る」ことの大事な体験だと思う。大事に至らない状況下で殴る、殴られるという経験をしておくことで、「殴られるとどれだけ痛いのか、殴るとどれだけ相手に痛い思いをさせるのか」を想像できるようになる。そういうリアルな経験を持たないでカッとなって撲殺してしまったとか、洒落にならない。小さく失敗を経験しておけば大きな失敗をしないの一例。

 子供のころはずけずけと罵り合えるのだけど、大人になると悪い部分を指摘してくれる人がいなくなる。自分を悪いと指摘する人がいないのは、自分が完ぺきだからではない。対人関係の加減なんてのも子供のころに経験しておかないと、大人になってから実地で学ぶのは辛い。1ミス即ゲームオーバーの世界でとても緊張するし、苦労するし、そこまで気を使ってもミスをして関係を取り返せないまでに壊してしまって落ち込むことになる。

 まぁ、そんなわけで、セーフティな状況下でまず小さく失敗するというのは、ノウハウを学ぶ上では非常に有効な方法論だということ。工学というかエンジニアリングってのはこの失敗をいかにうまく重ねるかが重要。

議論の失敗

 感情的になるテーマを仕向けて議論をさせるというのは、議論の失敗を体験させるという側面がある気がする。感情を伴うと、結論ありきでその結論をいかに相手に認めさせるかという不毛な言い争いになりがち。ある論に対して対立する論が出された時に、その双方を矛盾なく説明できるより完璧な論を作る、という作業をしなければ議論は進まないのだけど、議論をすすめるのではなく、自分の論を終着点にしようとしてしまう。

 その議論が進まない様を、論理ではなく感情にすり替わっていく様を、まさに体験し肌で感じ取り、こうなってはいけないと反省するには過激なテーマを持ち出して議論を大炎上させてみるのがてっとりばやいと思う。

 さて、タケルンバ卿のエントリに端を発するグループディスカッションだけども、まとめを見ると感情的に反論しているトラックバックが非常に多い。その考え方は下衆だとか、設問がセクハラだとか、その議論を強いるのがパワハラだとか、大炎上である。

 件のグループディスカッションのテーマは「炎上させて議論を失敗させることを目的にした議論のテーマ」と私は捉えている。そしてその用を見事に成したことは、この炎上を見れば明らかで、はてな村をあげて議論の失敗経験を共有することができたわけである。目的からすれば大成功ではないか。

感情・利害を置いて議論するということ

 このテーマが示したことは、感情的になりやすいナイーヴなテーマを議題にすることがいかに難しいかということである。感情を置いて議論をするというのは理屈では理解できても実践することは難しい。

 また、自分が感情を置いて発した言葉も、聞き手がそこに感情を見出してしまうことがある。たとえば、自分が当事者である係争から客観的に分析した事項を述べる場合などがあてはまる。自分が当事者である以上、どれだけ客観的に分析したところで、第三者は「我田引水な理論を構築している」と捉えることがある。自分が持っていない感情を、第三者が勝手に見出すがゆえに、自分が当事者である事象を語ることはとても難しい。

 理想的に、感情・利害を切り離して議論できる技能を持った者同士であれば、たとえ当事者であろうとも、直接的な利害が絡んでいようとも、客観的な議論を行い、あるべき形に肉薄することができるはずだ。

誰でも参加できる議場

 しかし、Webというのは誰でも参加できる議場であって、そうした技能を相手に求めることはできない。

 孔子にしても『七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず』というのだから。僕らがそれを目標にしてその高みを目指すにしても、なかなか至らない。なれば、特に議論の訓練を積んでいないブロガーにそれを期待することは叶わなくて、自然、ナイーヴなテーマは炎上しやすいとなるのだろう。

 さて、かくして炎上は起こった。

ま、これだけみんなが何かしら引っかかっているということは、それだけ良問ということなんだろうな。エクセレンツ。

Lord TAKERUNBA on Twitter: "ま、これだけみんなが何かしら引っかかっているということは、それだけ良問ということなんだろうな。エクセレンツ。"

という卿の発言をどう捉えるべきだろう?我々はこの炎上から何を学ぶべきだろう?

 「この炎上で一番悪いのはだれですか?」なんて設問を作ってしまうと当初のテーマのトートロジー、つまるところ同じことの反復になってしまう。議論好きならばこの御釈迦様の手のひらから逃れ出ようとしてみてはいかがだろうか。