お互いの意見の食い違いは何からくるのかを議論しようとしたら仲裁に入られた

お互いの意見の食い違いは何からくるのかを議論しようとしたら仲裁に入られたことがある。割り込んできた人というのは喧嘩でも始まるのかと思ったようだ。

考えてみれば、日本人の空気を読む、まぁ丁寧に言えば「察する」というのは古来からの伝統であろうし、和を尊ぶ民族なのだろうが、「意見が違うということ」=「喧嘩」という捕らえ方をされたのはちょっと苦笑いせざるを得なかった。

意見の食い違いがある場合、議論慣れしていないと、ニホンザルのマウンティング(群れの中の序列確認の儀式)のようなことになってしまう場合がある。つまり、「勝ち負け」を決めようとするわけだ。議論というのはそういうものではない。食い違う意見を説明できるより完全な理論を見出す行為だ。そこに勝ち負けなど存在しない。

どちらが勝ったか負けたかということを意識しているのだとしたら、それは議論ではない。だが、世間的には「言い合い」はみんな議論だと思っているふしがある。最近見かけたblogから例を挙げよう。

例えば議論に勝つための初歩的なテクニックというのがある。それは相手のプライドを刺激することだ。人間誰しも矜持というものがある。例えばぼくなら「面白い」ということについては一家言ある。あるいは「言葉」についても並々ならぬこだわりがあったりする。そういうぼくに向かって、「おまえの言ってることは正しいかも知れないけど面白くないよね」とか、「言わんとしていることは分からなくもないけど言葉の使い方を間違ってるから分かりにくいんだ」とか言うともうとたんにカーッとくる。それでペースを乱されて以降の物言いがはちゃめちゃになって結局議論に負けるというのもある。

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080919/1221753236

そんなテクニックはいかに相手のニホンザルを押さえ込んでマウンティングを成功させるかというテクニックでしかない。そんなことをやったところで疑問はなんら解決しないし、誤った意見をこうした手法で押し通しでもした日には、後で大きな惨劇が起こりかねない。勝った負けたなどと言っていても議論は進展しないのである。

プログラマというのは日々議論にさらされている。そこにあるのは勝ち負けではなく、目の前の技術的課題をどうクリアするかという死活問題である。求められるのは、ただただ正しいこと。つまり論理的矛盾がないこと。矛盾しないように設計していざ組み立ててみたらうまく動かない、新たに「理論どおりうまくいかないという矛盾」が生まれたとすれば、それはなぜか。どうすれば解決するのかを考える。

プログラマーの脳みそというのはそういうものなのである。ロジカルに整合性を求める。相手がいかに熱弁しようとも、それを組み入れると矛盾点が生まれるなら拒否する。導入するにしても矛盾がなくなるように修正を施す。相手が自分を言い負かそうと躍起になっていたとしても、そんなことは関係ない。

真に議論するためのテクニックというのは、そうした議論の邪魔になる感情を外に切り出したり、議論の流れを整えるため論点を確認するようなことであったり、前提条件の違いを確認して不毛な対話を交わしたりするようなことを言うのだ。

この意見の食い違いはどこから生まれたのか。誤りがあるのはどこなのか。自分にある誤りは訂正する。そうして、マウンティングにこだわる相手を尻目により完全な矛盾のない理論を手にするのである。

議論のテクニックは以下を参考にされたい。


マウンティングの技能をいかに駆使しようとも真実を覆すことはできない
論争の勝ち負けなどというのは極めて相対的なものであって、当事者が勝ったつもりでいても、傍から見ていた第三者の評価はそれと一致するとは限らない。むしろ、必死になってマウンティングしようとする様は滑稽でしかなく、勝ったという自己評価とは対照的に、周囲からは救いようのない奴だと評価されかねない。


マウンティングがしたいなら真に議論を行える相手をさけるべきだ。
真実に近づきたいなら真に議論を行える相手を選ぶべきだ。