ブログのシステムを考えるときはライフゲームを想像する

ライフゲームというものがあるのだけど、多分、プログラマでも知らない人がそれなりにいることだと思う。

簡単には、世界に一定のルールで行動する生物を模したものを投入して、時間経過でどのような繁栄をするかを観察するというものなんだけど、群衆行動を考えるときは私はこのライフゲームのように人間の行動を考える。

本家のライフゲームは周囲のスペースに仲間がどのぐらいいるかで繁殖と死滅を繰り返す単調なもの*1だ。

無断リンク論は麻疹のようなものかもしれない - プログラマーの脳みそとかで述べているジャイアニズム。あれもライフゲーム的に想像すると面白い。

まず、blogでの発言と言うのは、望む望まないにかかわらず世界に向けた発信であるという事実があり、公表された言論に対しては批判の対象となる、という単純なルールがある。

つまり、「俺は議論がしたいんじゃない、一方的にお前に文句を言いたいだけだ。俺の文句は聞け。そして俺に文句をつけるな!」という、あまりに幼稚な主張は論外なんだよね。

管理の問題ですね、わかります - プログラマーの脳みそ

ここで挙げられる、一方的な行動をとるAIを多数、ある世界に放り込んで、時間の経過を見るとしよう。個々のAIが自分の行動を人に強制させようとして、ぶつかりまくって平和なぞ訪れようもないことがイメージできるだろうか。

凄く単純に考えるのであれば、2者のAIだけを考えて、この2者が握手を交わせるのかということを想像してみよう。お互いが「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」と言っているんだから、安定した状態になれない。

現実社会がジャイアニズムを許容しないのは、それがより不安定な状態への遷移となるからのように思える。化学反応のようなもので、全体としてより安定な状態になろうとする性質があるように思う。このあたりエントロピーとか適用できそうな気がする。

こうしたシミュレーションを脳内で行って、より望ましい世界のあり方を考え、ルールを定めていく。システムを構想するというのはそういうことだ。それでいて、出来上がってみたら、事前の想定とは違うことが起こる。システムを作るということは世界を作るという無謀な挑戦のようにすら思う。

*1:だがしかし、この単純な世界が織りなすものは複雑怪奇だ