対話の目的はそれぞれ

 「感情論」の話。

感情論……感覚と情理によって説明する手法*1
論証論……論理と証明によって説明する手法

議論を巡るやりとり帳 - (旧姓)タケルンバ卿日記

 という対立軸を提唱して、

Q.「感情論」は悪い手段なのか?
A.手段なので良いも悪いもない
 あくまで「モノを伝える」が目的なので、伝わりさえすれば、感情論だろうが、論証論だろうが実は何だっていいんです。トウ小平の「黒い猫だろうが、白い猫だろうが、ネズミをとる猫が良い猫」ではありませんけども、伝わる方法がいい方法なんです。目的と手段を履き違えてはいかんのです。

 という説を展開しているのだけど、対話の目的が「モノを伝える」であるというところに待ったをかけてみる。自分の言いたいことを伝えるだけでいいのか。伝えた上でどうしたいのだろうか。

伝わったその後

 伝えて共感してもらいたいのか。果ては「自分はこう考えているんだけどもおかしいところがあったら指摘してください」という、どちらかと言えば否定を募集するような対話もある。比較的アカデミックな場で行われる対話(論文のやりとりであるとか、エンジニアリングの現場での問題解決を探っての議論とか)というのは、伝えた後のことを重視する。

 システム開発の現場で重大なバグが発生した、どうにかしなきゃ、という状況下で、感情論で「どうにかしろ!」と喚いたところで、「お前がどうにかしてほしいと切に願っていることは分かった。だがそれが俺たちに伝わったところで問題解決にはなんの貢献もしないんだよ」と切って捨てられるだけである。

 「伝わった後のこと」を考えるなら、感情論を使うべきではない場があるし、どんな正しい理屈よりも「申し訳ありませんでした!」という感情的な謝罪の方が大事な場もある。

 というわけで、そのへんの前提が怪しいとなれば、以後の論も揺らいでしまうのではないかな。