ゲームに学んで僕は育った

高校〜大学時代、僕は学校はサボりがちだった。高校は県内の中堅どころの進学校だったが、夏期講習などの出席日数として数えられない(が、基本的には全員参加)という授業はすべて出なかったし、通常の授業さえ、3/4以上の出席を満たすために、日数をカウントしてきっちり1/4をサボった。

卒業式の日、「え、お前卒業できるん?」とクラスメイトに聞かれたことを覚えている。

では、そのサボった時間をどうして過ごしていたかというと、近くの大学の図書館に入り浸ってネットサーフィン*1していたか、ゲーセンに通ってスコアアタックをしていた。

ストIIなどの格闘ゲームがブームであった90年代中ごろ、どういうわけだか自分はシューティングゲームにはまっていた。レイストーム(1996年タイトー)を夢中になって攻略し、ついに1コインクリア*2を果たした時は感動したものだ。

僕は、ゲームを持って、戦略的に攻略を立て、自分をトレーニングし、目的を遂行すると言うスキルを手にした。観察し、分析し、戦略を立て、それを記憶し、実践し、体に覚え込ませ、成功率を高めていく。全てが成功した場合のみクリアできる、なんて綱渡りではとても無理で、ミスを許容するだけのリスク管理も必要だ。

クリアするだけなら、まだそれでよかった。

スコアアタックなんてものにハマってしまった。ルールは単純で、1コインでそのプレイ中にどれだけの点数を稼ぐかを競うというものだ。
当然、クリアすることは大前提だが、点数さえ高ければなんでもやる。わざと難易度を挙げてプレイした方が高いならクリアに支障をきたさないラインまで難易度を上げるし、ボムを撃った方が点が高ければ撃つし、ミスした方が点が高ければわざとミスをした。*3

このあたりの体験はブログのシステムを考えるときはライフゲームを想像する - プログラマーの脳みそといった考え方の元になっている。ゲームのプレイ上の最善の戦略というのは経済学のゲーム理論*4に通じるところがある。ゲームでわざとミスをする、なんてのは心理的には忌避されることだが、それが「点数を稼ぐ」というルールにおいてはメリットがあるならそれをやる奴は必ず出てくる。これは商業における行動心理にも通じる。まさに経済学のゲーム理論の世界だ。

ゲームのプレイで何が何点入って、なにを優先し何を見逃すか、というのはまず観測から始まる。このあたりは極めて工学的な観測だ。点数の計算式がはっきりしないことも多い*5。そういったとき、ノイズが入らないように計測し、分析し、結論付けるわけだが、これこそは工学系の学生がレポートに追われる学生実験で大学側が生徒に身に着けさせようとしているスキルそのものである。

自分は子供のころから趣味でプログラムをいじっていたので、ゲームの挙動をアルゴリズム的な観点から分析することを日常的に行っていた。どういったプログラムならこういう挙動になるのか、ということを日々研究していた。ロジカルシンキングの基礎はゲームの解析から身につけたと言える。

その後、自分は大学を中退してIT業界へと足を踏み込むわけだが、ゲームのスコアを追い続けた青春の日々がなければ、自分は今でも頭数いくらの要員でIT土方をしていたかもしれない。

何をするかが大切なのではない。そこから何を学んだかが大切なのだ。

*1:今や死語だが、そんな言葉の時代だとご理解いただきたい

*2:つまり、1プレイ分の料金100円を投じて、コンティニューをせずにクリアすること

*3:潰しと呼ばれる。定められたルールの下、他の一切を躊躇しないことを覚えたし、目的のために高いハードルが与えられたらそれをクリアすることを覚えた。ある場所で繰り返しミスすることで稼げるなら、その場所までノーミスで行かねばならない。

*4:囚人のジレンマなどに代表される、どのように行動することが一番利益を得られるかという学問

*5:雑誌などで計算式が公式に発表されることもある。新作などは情報戦の様相を呈し、独自に調べた計算式を基にに最善のプレイスタイルを考案してライバルと競うのだ